生涯を通じて相場に関係。ブローカーを経て投資家、アドバイザーとして
名を馳せ、相場予測に関して数々のエピソードを持つ伝説的トレーダー。
その相場接近法は一般にギャン理論と呼ばれる。
<略歴>
1878年6月6日テキサス州ラフキンに生まれる
1902年初めて綿花の先物取引を行なう
1906年オクラホマ・シティにて株のブローカーとして働く
1908年ニューヨークに進出し成功
1929年大恐慌の予測を的中させる
1955年6月14日ニューヨークブルックリンのメソジスト病院にて永眠、77歳
<著書>
1910年「職業としての投機」(小冊子)Speculation a Profitable Profession
1923年「株価の真実」 Truth of the Stock Tape
1927年「空間を抜けて」 The Tunnel Thru the Air
1930年「ウォール街 株の選択」 Wall Street Stock Selector
1936年「株式トレンドを探る」 New Stock Trend Detector
1936年「科学的株価予測」(小冊子) Scientific Stock Forecasting
1937年「プットとコールで儲ける法」 How to Make Profits in Puts and Call
1940年「現実に立ち向かえアメリカ-1950年に向かって」Face Facts America! Looking Ahead to 1950
1941年「商品で儲ける法」 How to Make Profits in Commodities
1949年「ウォール街での45年」 45 Years in Wall Street
1950年「魔法の言葉」 The Magic Word
1951年「商品で儲ける法 改訂版」 How to Make Profits in Commodities Revised
<ギャンとその生涯>
ギャンの母親は熱心なメソジストで、聖書を使って小さいうちからギャンに読み書きを習わせた。
そのため彼は幼くして既に読むことができ、他の兄弟や姉妹達と同様、厳格なメソジスト教徒として
育てられ、きちんと教会にも通った。彼は聖書に没頭し、聖書の重要な箇所は覚えており、母親は
幼い彼に将来は牧師になるよう言い聞かせていたという。
ギャンはラフキンの小学校に通う。読み書きが達者で、記憶力がよく、算数が得意という、
ごく普通の少年だったようだ。ただ、子供の頃の特長として、彼は人並みはずれた向学心を
持っていたといい、それはまた生涯続いたのである。次第に完全主義者となっていき
聖書の隅から隅まで熟読を繰り返し、イエス・キリストの真理を究明しようと努力した。
ギャンは家業の綿花農業を継がなかった。彼は農場で働くことを嫌い、他のラフキンの少年と
同じく、仕事を得るための許可を両親からもらうまで、反抗的な態度をとったこともあった
ようだ。彼はテキサス州のテイラーとテキサルカナ間を走る列車の新聞の売り子となる。
彼は十代を綿花の問屋で過ごす。ラフキン及びテキサルカナの綿花商で働き、1902年、ギャンは
24歳にして初めて綿花の先物取引を行なう。この取引でわずかながら利益をあげる。これが
後に世界的に知られるようになった、伝説的で驚異的なギャンの相場人生の始まりである。
3年ほどで近隣に知られるトレーダーとなり、相場が彼の予想した通りに動くということもあって、
彼の綿花相場の予測が新聞に掲載されるようになる。
1906年、オクラホマ・シティーに移ったギャンは株のブローカーとして働くが、彼の会社は景気の
低迷で倒産。このことが彼をいっそう相場の研究に向かわせることとなる。自ら述べているように、
10年間というもの、もちろん、取引は行ないながらであるが、調査・研究に没頭したようだ。
ある時は9ヶ月間昼夜を問わずニューヨーク市にあるアスター図書館へ通い詰めたこともあった。
ロンドンの大英博物館へも頻繁に通い、何百年も遡るチャートを根気よく作成したりもした。
例えば、小麦相場。彼は、過去100年分のデータを集め分析した。彼は連続上昇の記録を調べた。
2ヶ月連続上昇107回、3~4ヶ月連続106回、5~6ヶ月連続47回、-----、10ヶ月連続上昇2回
(1881年と1924年)。季節要因では、何月に高値になり、何月に安値になるか。凶作の時はそれが
どうずれるのか。コーンが小麦より高い時は、コーン相場は、どうなるのか。
例えば、株式相場。彼は、仕手筋の市場操作のやり方を調査するために、1820年からの証券取引の
記録をすべて調べた。そして、E.H.ハリマンが行なったユニオン・パシフィック株などの
株価操作を研究し、儲ける自然法則をついに発見した。
「歴史は繰り返す」と彼は言う。「過去を知れば将来の株価を知ることができる。人間の本質が
不変だから、タイム・サイクルは繰り返す。私は物事を数学的に分析する。私の予測には
なに一つ神秘的なものはないのだ。もしデーターが手許にあれば代数と幾何学を
用いてサイクル理論に従い、過去に起ったことが再びいつ起るのかを予測できる」-。こうした
着想は子供の頃の聖書の影響も大きいのだろうが、この頃確立されたものかもしれない。
1908年にギャンはニューヨークに出て成功する。ギャンは、その才能の故に東テキサスの綿花畑から
最終的にはニューヨークのウォール街99番地へと引っぱり出されることとなる訳である。
さて、彼のトレーディングの結果についてであるが、結構、具体的な記録が残っている。1908年の夏、
たった30日で450$の資金を37,000$(一説には、130$を12,000$。この違いはギャンが開設した
口座が一つではなかったことによると考えられる。合計で四百数十ドルを37,000$にしたと考えて
よいだろう)にした。ニューヨーク行きも含めて、これが彼の人生の転機といってよいかもしれない。
こういうエピソードもある。1909年夏に、9月末までに小麦が1.20$まで上昇すると予想したが、
その日の12時30分になっても1.08$だった。その際にも彼は、今の価格に関係なく必ず上昇すると
言ったという。誰もが予測が外れたと思った、その最後の日の引け間際に1.20$まで急騰した-。
1909年10月、ギャンは「チッカーと投資ダイジェスト」誌のリチャード.D.ワイコフから1ヶ月間の
売買を記録させて欲しいとの申し出を受け、ギャンは10月の1ヶ月間、全ての取引をモニター
させた。当時は土曜日にも場が立っていたので、1ヶ月の取引日は25日だったが、ギャンは数々の
銘柄の株を取引し、都合286回の売買を重ねた。そのうち264回は利益を上げた。実に売買の92.3%で
利益を上げたのである。この25日間で元手はなんと10倍にも膨らんでいた。売買の間隔の平均は
約20分。ある時は、ギャンは1日で同じ銘柄を16回売買し、そのうちの8回を天底から1/8の
ところで行なった。
1923年には、60日で973$を30,000$に。1933年には、479回の取引中、422回勝って勝率88%、
利益率は4,000%。
彼にはこういったエピソードがいくつも残っている。時代が違うとはいえ、同じ伝説的なトレーダー
である本間宗久に関する記録が残されていないのとは随分異なっている。実際の取引の記録がある
という点ではダウやエリオットとも違っており、これはギャンが理論家である前に実践家であった
ということの好個の証左であろう。
また1929年の株式大暴落を予言し、「全ての投資家はその暴落によって自信を失うことだろう」と
述べたと言われている。
結局、生涯にディールで5,000万$儲けたという。現在価値に換算すると約100倍、
50億$ということになり、当時としては驚異の数字だったことだろう。
またギャンのギャンたるゆえんは、単に儲けたということだけで終わらなかったことだ。後に、
彼は大儲けした夢が忘れられず自滅していく相場師の多いことを指摘している。
彼はマーケットを支配している基本原理が自然の理法に基づいていると考えた。自然の法則、
原理を求めて、エジプト、インド、英国と思索の旅にも出た。
ギャンは次の一文を念頭においてトレードしたという。
「かつてあったことは、これからもあり
かつて起ったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった」
このルールはどんな商品にも通用するという。この世に共通する、自然の理法だからだ。
「株価の真実」の第10章にも引用されている、この文章は旧約聖書(伝道の書1章9節)の
文句である。上記の文句はトレーディングの発想であるとともに、彼の生活信条でもあった。
このことは、ギャンが非常に熱心なキリスト信者の一家に生まれたことと無縁ではないだろう。
彼自身も敬虔な信者だったという。
ギャンはトレーディング以外にも情報サービスや出版のビジネスを展開する。
1910年、週給が平均15$だった時代に年間3,000~4,000$で投資アドバイスを行なった。
ここでは詳細に触れないが、彼の年間予測は今読んでも驚嘆に値するものだ。
日刊、週刊の株式ニュース・レター、3週間ごとの株式ニュース・レター、日刊、週刊の
商品ニュース・レター、さらに3週間ごとの商品ニュース・レターを発行した。電報による
情報サービスや年間予測なども行ない、全ての予測に関するフォロー・アップを毎月1日に
送付した。さらに、株式と商品に関する日足、週足、月足、四半期足とスウィング・チャート
も発行した。彼の人生の最盛期には35人の従業員を雇ってチャートを書かせ、分析・調査を
行なった。またギャンは投資の上級コースも教えた。
また、彼は多くの著作を残したが、流暢な書き手ではなかった。精読しないことには
ギャンの教えはわかり難い。
1950年、ギャンはエド・ランバートをパートナーとしてランバート・ギャン出版を
フロリダ州マイアミに設立した。
ギャンは数学的才能に恵まれており、チャートを読む達人であった。しかし、また、仕事の鬼
であり、家族や協力者として作業を手伝った人に対し、かなりわがままでもあったらしい。
彼は3人の娘と1人の息子をもうける。その息子は父と共に仕事をしていたが、やがて
ブローカー業に従事する。
ギャンは人生を相場と共に過ごしたが、競馬やドッグ・レースを愛し、宝くじを楽しんだりも
した。飛行機の操縦も好きで、生涯に3機の飛行機の所有者ともなった。
没年は1955年。6月14日にニューヨークのブルックリンにあるメソジスト病院で亡くなっている。
享年77歳。そのうち、52年間トレーディングしていたという。
こうして振り返ると、長い間、相場にかかずらったという以外(これが本当は凄いことだが)、
ごく普通の人生だったという気がする。
この文の締めくくりには「ウォール街での45年」の一文が適当であろう。
「人生が与えてくれるものは、自分が人生に与えたものに他ならない。自分が種を蒔いたもの
だけを刈り取るのだ。知識を得るために時間と金を費やし、知るべき全てのことを知る尽くした
などと驕らず、向学心を絶えず持つこと。そのような人こそが投機と投資で成功を手にするのだ。
ウォール街で株や商品の取引をして過ごした45年間で知り得た真実を語り、あなたの弱点を
知らしめることで、破滅しないですむようにしているのだ。投機を儲かる職業とすることは
可能だ。ルールに従い、予期せぬことが起きることも考慮し、その準備を怠らなければ
ウォール街に勝つことができる」
ギャンは相場実践の人であった。ギャンの伝説的な相場人生に比肩されるような経歴を誇る
人物はまだ現れていない。
※「W.D.ギャン著作集・ギャンとその生涯(P489)」(ニッキー・ジョーンズ/林康史)にその他資料を若干加筆。
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